ギャラリー

悠久の自然の中で見たもの、感じたもの、
そして私たちに伝えたかったこと。
星野道夫からのメッセージを
遺された写真と文章で紹介します。

早春

アラスカにやっと春がきて、
長いキャンプ生活に入る最初の日。
しばらく使わなかったテントを、
雪解けの土の上に広げる。
ポールをつなぎ、ペグを打ち、張り網を引いた。
長い冬が去り、自分の気持ちさえ
ゆっくり組み立てられてゆくようだ。

川へ水を汲みにゆく。
雪解けの川音ほど春を告げる調べはない。
新緑に染まるシラカバの中にも、
その音は流れているだろうか。
幹に耳をあて、じっと耳をすませば、
大地から根の吸い上げる水音が
聞こえるというではないか。
その力とは一体何なのだ。

春一番の使者、ムナグロが川辺を飛びまわっている。
巣作りが始まっているのだろう。みんな去年と同じ。
当たり前のことか。
でも本当に繰り返されてゆく。
人間の喜びや悲しみとは無関係に……。

自然の秩序とは、だからこそ僕たちの気持ちを
なぐさめてくれるのかもしれない。

まだ湿り気のある、川岸の土の上に寝転んだ。
香ばしい、早春の土の匂い。
ワイルドクロッカスが薄紫色のつぼみを
ふくらませている。柔らかい陽射しの中、
ぼんやり雲を眺めていると、
心臓の鼓動がやけにはっきり聞こえてくる。
「オーイ、時間よ、子どもの頃のお前に
もう一度会いたいね」
なんて叫びたくなるじゃないか。

やっぱりおかしいね、人間の気持ちって。
どうしようもなく些細な日常に左右されてゆくけど、
新しい山靴や、春の気配で、
こんなにも豊かになれるのだから。
人の心は深く、そして不思議なほど浅い。
きっとその浅さで、人は生きてゆける。

「Alaska風のような物語」小学館より

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